やればできるって言葉がある。
やればできるなんて嘘っぱちな言葉だと思う。真実はやればできる場合もあるってことだ。
やればできると信じて他人を変えようとすることは非常に難しい。
そもそもの可能性がない勝負かもしれないからだ。
そしてそれには制限時間はない。あるのは限られた己の体力と気力、そして時間だけだ。
自分自身に「やればできるを強いるか/強いないか」はとても単純。
頑張れるって思ったら頑張ったらいいし、頑張れないと思ったら辞めたらいい。
しかしながら他人に「やればできる」を強いるのは非常に難しい。この人はやればできるんだってどんなにエネルギーを注いでもできない人にはできない。
そして本当にその人ができないのか、それとも自分のやり方が悪いじゃないかっていう葛藤の中で擦り切れてしまうことだったある。
多分、人の能力ってこんな感じになっていて能力の上限が決まっていてそこまでしか
伸びないんじゃないかって思う。
僕が東京大学に入学したくて受験勉強をしていても覚える量より忘れる量の方が多くて一生合格できないように。
ジャンルcとか能力fみたいに頑張れば倍以上伸びる項目もあればジャンルaみたいにどんなに頑張ったって知れている項目があるのだ。
こんな項目はやればできるが通用しない。やってもできないのだ。
僕がどんなに練習しても100m10秒以内で走れないのと同じなわけだ。
そんなやってもできない人に対しては
なんとかできるようになってもらおうとどれだけ頑張っても頑張っても頑張ってもきっとできるようにはならない。
1-2回の取り組みで結果が出ないからとそうそうに諦めることはないが
延々と労を尽くしても待っているのは成果ばかりではない。
損切が必要なのだ。
青春時代の泥だらけの汗臭い考え方は年とともに少しずつ変わっていった。
最近は映画を見ても音楽を聴いても昔ほど感動しなくなってしまった。
感受性を揺さぶりたい。これじゃいかんと思いながらエレファントカシマシを聴く。
しかしながら私はやればできる人をやればできるようにやってあげれない人なのかもしれない。