熱帯夜のせいか足が攣り、眠れない夜。
関西から慣れ親しんだ九州へ。馬出九大病院前駅から九州大学病院までのルートを辿る。 それは、かつて母に手を引かれながら歩いた道だった。

母は極度の方向音痴なのですが、田舎から福岡の大学病院まで何度も電車を乗り継ぎ、子どもを連れて通院させてくれた。今思えば、それだけでも大変なことだったと思う。
私は生まれつき歯の本数が少なく、前歯は3本しかない。
すきっ歯で、歯の隙間には「上唇小帯」という線状の組織が入り込んでいた。
最初は家から車で15分ほどの地元の歯医者へ。
その待合室で、週刊少年ジャンプに出会った。 ドラゴンボール、スラムダンク…ジャンプの黄金時代。ワクワクしながら読んだ。面白い。僕が歯医者から帰りたがらないくらいジャンプに興味を示すものだから、母が医院に頼んで、家にあった雑誌と待合室のジャンプを交換してくれた。時代なのか、田舎だからか、今考えるとなかなかの行動だったと思う。
結局私の歯は地元の歯医者では対応できず、何度か通ってできることだけやった後は大学病院に通うことになった。
大学病院へは小学2年生から5年生まで、約3年間毎月通院した。上唇小帯の切除手術をしたり、抜歯をしたり、入れ歯を作ったり、矯正をしたり。
学校を休んで朝から行く日もあれば、登校して途中から母が迎えに来ることもあった。
通院の日の昼食は、いつもコンビニのおにぎり。電車の中で食べながらジャンプを読む。母からは「行きと帰りで半分ずつ読んでね」と言われたけれど、どうしても行きの電車でほぼ読んでしまっていた。 ふと今思い返すと、おにぎりを食べていたのはいつも私だけだった。母は何を食べていたのだろう。

(当時海苔とご飯が別々で二つの動作でぱりぱりのおにぎりが作れるコンビニおにぎりの包装に驚いた)

Googleマップで見た大学病院は建て替えられ、門しか残っていなかった。 かつて池の前のベンチに母と座って、亀を眺めて遊んだ思い出。池も今はもうない。 あの亀はどこへ行ったのだろう。
大学病院の待合室のこと、病院の先生が名前の頭三文字に「君」というニックネームで呼んでくれていたこと、受診するたびに九九や三角形の角度など学校で習っている範囲にあわせて問題形式の会話をおりまぜながら治療をしてくれていたことを思い出す。
行きの電車で残していたジャンプを病院の待合室で読んでしまい母に毎回注意されていた。
大学病院から駅までの帰り道、ごくたまにパフェをご馳走してくれたファミレス。
今はなくなっていた。パフェが食べられたときは心の底から幸せだったな。
昔は福岡は都会だからパフェがあると思っていた。
メロンソーダもここで生まれて初めて食べたと思う。福岡にはすごい食べ物があるなと驚いた。

子どもの頃は「駅から大学病院まで遠かったな」という記憶だったのに、今地図で見るとほんの短い距離。 人の記憶って不確かだけれど、だからこそ思い出の中で膨らんだ風景は愛おしい。
「矯正してガムが食べられなくなるのは嫌だ」と、幼い私は不満を漏らしていたけれど、おかげで人前で歯を見せられるようになった。 時間とお金をかけて治療してくれた両親に今では感謝しかない。
小学5年生のとき、ついに矯正器具が外れた。次兄がガムをご馳走してくれた。 嬉しさのあまり噛みしめたガム。でも、「あれ? こんなものだったっけ?」という拍子抜けも覚えている。
この通院がきっかけで、祖父がジャンプを買ってくれるようになった。
散歩の道中、駅の売店で買ってきてくれた。
ジャンプを手に入れた日は兄弟で奪い合い。
祖父の家に先に取りに行った者が最初に読める、というルール。
しかしそれでは全員が当日中には読めないからと、母が「半分ずつ読む」「話数で区切る」といったルールを作り、それが運用された。
ジャンプを受け取る時、祖父はよくこう言っていた—— 「一冊190円だけど、1年分だと10,000円になる。高いぞ。」 そして、値上がりするたびに「また高くなった」と文句のような感想をこぼしていた。 でも、合併号の週には「今週はジャンプないぞ」とわざわざ連絡をくれた。 気配りだったんだと、今ならわかる。
しかし合併号のため取りにいかないと「ジャンプがないと会いに来ないのか」と嫌味を言われたこともあった。 けれど、それが祖父らしいところでもあった。
懐かしい思い出だ。
その後、祖父は散歩がつらくなったのか、「1年分として10,000円を渡すから自分で買いなさい」という制度に移行。 ジャンプを買うことは、自然と終わりを迎えた。
そんなあれこれをGoogleストリートビューで振り返っていたら、朝の4時になっていた。 見えない風景を、心の中でもう一度歩いた夜だった。